Confesiones Ⅳ


 其れからまた時は経った。相変わらずセシリオは花に囲まれ生きて、ルイスは原始的な欲の波間に揺られていた。
 娼婦が使い終えた後の部屋は何時も熱気と淫靡な空気が充満している。其の気が無くとも思わず、身体の芯が熱くなる程に。其処で美貌の少年がまるで誘うように微笑んで立っていれば、そう言う嗜好のない男でも思わず生唾を呑む物だ。

 今日も薄闇の中、白いシーツに漆黒の髪が散る。
「あぁっ、も、だめ……!」
 薄らと上気した肌を露わにした少年の上に跨る男。狭い室内に悩まし気な嬌声が響く。
 あの事件以来、ルイスは娼館に来る客に身体を売るようになっていた。全てはセシリオの為。掃除をして、洗濯をしているだけでは闘牛場にもタブラオにだって連れて行けやしない。だけど可愛い弟の喜ぶ顔が見たい。ルイスは其の一心で男の相手をしていたのだった。

「また頼むよ」
 服も脱がず行為に没頭していた男も一度満足してしまえばドライな物で、ノロノロとシャツのボタンを留めるルイスの前に数枚のコインを投げた。其れにはルイスも驚きに目を丸くする。
「ねえ、これっぽっち?」
 最初は紙幣を何枚か置いて行ってくれたのに。あからさまに膨れるルイスを横目で見やり、男は小さく鼻で笑った。
「お前、ここ数日だけで何人食いものにした。そんな淫乱な仔猫にはこの程度で十分だ」
 未だ納得のいかない少年の鼻頭を指先で小突くと、男は其のまま部屋を後にした。
 投げ捨てられたコインを拾い集めながら、ルイスは一人溜息を噛み殺す。隠れてやっているのだから少なくても貰えるだけマシだ。そう言い聞かせてはみたものの、やはり何ともやり切れない。
 其れでも振り切るようにコインをポケットにねじ込んで汚れたシーツに手を掛けた所で、ふと背後に人の気配を感じ、ルイスは恐る恐る振り返る。
「……何だ、エリアスか」
 扉の脇には浮かない顔をしたエリアスが立っていた。
「また値切られちゃった。やっぱり先払いにしないとダメだね」
 そう言って自嘲気味に笑う少年の背中が何故か酷く淋しげに見えて、エリアスは堪らず細い身体を抱き締める。思わず息の詰まる程の力に、ルイスは俄に柳眉を顰めた。
「怒らないでよ。セシリオの為なんだ」
 あの事件以来、何方とも無く二人は自然と恋に落ちた。始まりはエリアスの同情心だったのかもしれない。だが今やエリアスは、心の底からルイスを大切に思っていた。だからこそ弟の為に何一つ省みないルイスを見ている事が、どうにも辛かった。
「分かっているけどさ……自分を大切にしてくれよ」
 愛する者に言うならば当然である筈の優しい言葉に、ルイスは何故か声を上げて笑った。
「エリアス、僕はね、セシリオよりも大切な物なんかこの世には無いんだ」
 愛情に満ち溢れた言葉が自分に向けられた物では無い。其れを思うと胸の奥が痛む。其の醜い嫉妬を隠そうとしたものの、心に反して腕に更なる力がこもる。そんなエリアスの心の内を感じ、ルイスは慌てて身を捩ると少し痩けた頬を両の手で挟み其のまま取り繕うように何度も唇を重ねた。
「傷付かないで、僕の愛しい人。僕は君の事も愛してる。これは本当。神様に誓うよ」
 だって、と置いた後に、ルイスは余りにも純粋な微笑みを向けた。
「君からは、お金を貰わないでしょう?」
 ルイスは堕ちるには純潔過ぎたのだ。そう自分を納得させるしか、エリアスは術を知らなかった。

 其れから少し時が経った、珍しく揃っての休日に、二人は晴れて街へと繰り出した。夜明けまで娼館の仕事だったエリアスは夢の中。同じく夜明けまで働いていた筈が、ルイスは全く眠気を感じる事も無く、浮かれ気分の横顔を微笑ましく見守っていた。
「お兄ちゃん、これで恥ずかしくないかな。闘牛って其の昔は貴族のお遊びだったのでしょう。僕、笑われないかなあ」
 ルイスが仕立てさせた服に腕を通しながら、セシリオは小さな姿見で必死に自分の姿を覗き見る。愛くるしく動き回る度に揺れる黒髪を梳いて、ルイスは小さな耳に唇を寄せた。
「平気さ。セシリオを笑う奴なんかいやしない。ほら、背筋を伸ばして微笑んでごらん」
 言われた通り背筋を伸ばし、セシリオは鏡の中の愛しい兄に微笑み掛ける。田舎の村で貧困に喘ぎ生きて来たなんて誰が想像するだろうか。美しい物は何時でも無条件に気品を伴うものだ。
「ほらね、麗しの貴公子の出来上がりさ」
 きっと甘えん坊の口調さえ聞かれなければ、この少年を貴族の御子息と思う人間は多いだろう。細い身体を後ろから抱き締めて、ルイスは柔らかい髪に口付け、祈る。〝おまえだけは、幸せにおなり〟と。
 すっかり気を良くしたセシリオとルイスは坂を下り、昼時で賑わう通りへと繰り出した。しかし着飾ったセシリオの隣を行くルイスは、帽子を目深に被り、まるで人目を避ける様な仕草を見せている。兄が寝ていない事を知っていたセシリオは、不安に思わず足を止めた。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫だよ。夜行性になってしまったから、少し眩しいだけさ」
 そう言って眩い太陽を仰ぎ、ルイスは出来るだけ優しく微笑んで見せた。
 ルイスの微笑みは何時もセシリオの心に深い安堵を与えてくれる。どんなに仕事でしくじって、普段は温厚な親方に叱られて落ち込んでいても、大丈夫────其の言葉だけでセシリオは何時も前を向き歩む事が出来た。
「辛かったら言って。今日も暑いから」
 優しい弟の言葉に小さく頷いて、二人はまた歩き出す。

 目指す闘牛場は、二人の住む丘の下、旧市街地を突っ切り、深い谷を渡る大きな橋を渡った先、絶壁に佇む市庁舎の目の前に位置している。休日でごった返す橋を縫うように進みながら、目指す闘牛場に辿り着くや、二人は思わず感銘の声を上げた。
「すっごい!」
 目の前に立ち竦む闘牛場は、遠くから見た時よりも格段に大きい。真白い壁はぐるりと大きな円を描いていて、赤煉瓦色の屋根瓦が縁取りのように乗っかっている。取り囲む人の数は息も出来ぬ程であり、誰もが眩い太陽の下で愉しげに頬を緩ませている。二人は声を上げて笑った。
「夢みたい!」
 人買いに売られ、見知らぬ街で生きる事を強いられた二人にとって其れは正に夢のような光景だった。優しさに包まれていながら何処か、貧困に疲弊した村。其処にいたならば、自分達はきっとこんなに輝く世界を知らないままであった。
「早く行こう、セシリオ!」
 はしゃぐ兄に手を取られ、走り出す。着飾った貴婦人の視線を交わしながら進み、セシリオは再び強く心の中で感じる。まるで、夢のようだ。其の夢の犠牲を、セシリオは知らない。だが一方のルイスもまた、忘れていた。これが神に背き、罪を犯して手に入れた幸福である事を。しかし其れでも良かった。この世界でセシリオを幸せにしてくれる物は、神では無い。其れを、幼心に気付き始めていたから。
 黄色い砂が敷き詰められた丸い舞台を囲む木板の座席には、我先にと人が押し寄せる。人々の期待が破裂する直前、見世物が始まった。鮮やかな群青のベストには精緻な金刺繍。真紅のムレータを翻し、猛牛を翻弄するマタドール。叩き込まれた所作の美しさに、彼が踊る度貴婦人の溜息が漏れた。猛牛を翻弄しながら、マタドールは杭を打ってゆく。盛り上がった背に突き刺さる杭から鮮血が迸る。マタドールは踊り、ひとつ、ひとつと杭を穿つ。遂には十もの杭を穿たれ、どう、と音を立て、黄色い砂埃を巻き上げながら真紅の巨体が大地に横たわる。マタドールの勝利に、抜け切った青空に響く興奮の渦。セシリオとルイスは目の前の異様な空気に唯々呑み込まれていた。
 マタドールは美しく、闘牛は逞しく、命の終わりは、思っていたよりも衝撃的なものであった。元は貴族のスポーツであったこの娯楽に、ふたりは確かに興奮を覚えた。しかしそれ程深く共感する事ができずにいた。
「マタドール、格好良かったね。だけど、都会のひとは残酷だね」
 セシリオは闘牛場を出て、ぽつりとそう呟いた。だが横で、ルイスの顔色は先程から青褪め、悪寒が背筋を擽っている。今更ながら男の相手をして、不眠不休でセシリオを楽しませようと気を張って、挙句闘牛を見ての興奮に身体が限界を迎えていた。そんな兄の横顔を盗み見て、セシリオは一つの答えを導き出した。
「お兄ちゃん、タブラオはまた今度にしよう。僕疲れちゃった」
 きっとルイスは自分が心配していると分かれば無理にでも元気なフリをするだろう。兄を愛するセシリオには其れが目に見えて分かっていた。見え透いた嘘であった。だがルイスもまた、そんな弟の優しさが嬉しくもあった。
 二人は手を繋ぎ、間も無く大きな太陽が沈む絶壁の街をゆっくりと歩く。 

 家に着くと直ぐにルイスは充てがわれた二段ベッドで深い眠りに落ちてしまった。やはり大分疲れていたのだろう。少し痩せた寝顔を暫く見詰めた後、セシリオは二段ベッドを飛び降りた。
「闘牛は楽しかったか」
 窓辺で何時ものように本を読んでいたエリアスに声をかけられ、セシリオは先程の記憶を思い起こし嬉しそうに笑った。
「うん、凄かった」
 こんな風に、と、セシリオはマタドールの真似事をして踊って見せる。
「タブラオは」
 娼館で翼を捥がれたルイスとは違い、未だ穢れ無き笑顔を見せる弟を微笑ましく見詰めながら何となしに問い掛けた言葉に、何故かセシリオの表情から煌きが消え失せた。
「ねえ、エリアス」
「ん?」
 本を閉じて真っ直ぐに向き直ると、漆黒の瞳が不安気に揺れている。
「お兄ちゃん、最近お店で何かあった?」
「……別に、何もないよ」
 何か、なんて生易しい物ではないけれど、其れを言ってしまえば誰よりも傷付くのはルイスである。少し俯いた髪を撫でて、エリアスはなるべく優しく声を掛けた。
「セシリオはさ、何も気にしなくて良いんだよ。お前が笑っていてくれれば其れでルイスは幸せなんだから」
 セシリオは恋人である自分よりも、ルイスにとって大切な人。逆立ちしてみてもセシリオに勝つ事は叶わない。其れでもエリアスはセシリオを前にすると、歪んだ嫉妬心など忘れる程安らかな気持ちになれた。其れほどに二人の絆は固く、愛情は深かった。

 二人はまるで鏡────どちらかが笑えばどちらも笑い、どちらかが泣けば、どちらも涙を流す。余りに美しい兄弟愛。だが其れは一歩間違えば、互いの姿を映す事でしか生きられぬ不安定さもあった。

 其れからまたルイスは娼館で、セシリオは師の元で互いを想いながら日々を繰り返した。たまに休みが重なれば、新市街地の美味しいケーキ屋にタブラオにと二人で出掛け、共に眠る事が出来る夜は、確かめるように身体を寄せ合って眠る。
 二人の気持ちは何処迄も共にあった。だが相変わらずセシリオはルイスが自分の為に客を取っている事も知らぬまま。ルイスは勿論の事、エリアスもまたセシリオが知るべきではないと考えていた。そしてエリアスと恋仲になった事もまた、ルイスはセシリオには黙っていたのだ。本人達に後ろめたい気持ちはない。其れでも未だ神を信じる弟に、神を捨て手にした罪を知らせる気にはなれなかった。秘密がバレる事がなければ何時までもセシリオは笑っていてくれる。ルイスは其れだけを信じていた。
 だがルイスが初めて持ったこの秘密がやがて、二人の心を結ぶ絆を重い鎖へと変えて行く事になるとは、この時誰一人思っても見なかった。

「ルイス、そろそろ休もう」
 其の師の言葉に、セシリオは朝から休み無く動かしていた手を漸く止めた。大きな太陽は既に頭の上迄上り切っていて、それに気付くと腹の虫も活発に動き始める。セシリオが来るのを待って、二人は大きな門の手前に腰を下ろした。
 今日は得意先であるアルバ家の庭の手入れ。師によれば、アルバ家はこの辺りでは有名な貴族だと言う話しだ。大きな屋敷を囲む真紅の薔薇の庭園。白い石造りの噴水では、小鳥が羽を休めている。煤けた人買い小屋や、熱気渦巻く闘牛場、賑わう大通りとはまるで別世界。
 質素な昼食のパンを頬張りながら、セシリオは唯々美しい豪邸を眺めていた。其の少し間の抜けた横顔は、随分と大人びたように見える。僅か数ヶ月だが、自分の手で金を稼ぎ生きるこの生活がまだ十五歳の少年を確実に成長させていた。肩に届きそうな黒髪が風で踊る度に、庭園のどの薔薇よりも美しく可憐な少年は優しく微笑んだ。この景色を、ルイスにも見せてやりたい。セシリオはやはりどんな時でもルイスを想っていた。
 そんなセシリオの優しい表情に、師も柔らかい微笑みを向けた。
「お前は筋が良いな。若いから呑み込みも早い」
「本当ですか、嬉しい!」
 素直に喜びながら、セシリオの心にまた新たな信念が生まれる。
 何時も疲れた顔をしながら無理して笑うルイスの為にと、セシリオはこの数ヶ月必死に仕事を覚えようとしていた。もう兄の名で呼ばれる事にも慣れた。この仕事も大好きになった。花と語らい、土の匂いに包まれ、太陽を愛する。其れはどんな仕事よりも、自分に向いていたように思う。だから何時か一人前の庭師になった時は、人買い小屋から出て兄に楽をさせてあげよう。そんな夢を毎日見ていた。
 師に褒められ其れが夢ではない事が分かると、その思いはどんどんと膨れ上がり、今にもルイスの顔が見たくて堪らなくなる。ルイスは喜んでくれるだろうか。自分を抱き締めて、笑ってくれるだろうか。短い昼食の一時、セシリオは其ればかりを頭に巡らせていた。

 ふとそんなセシリオの視界に人影が映る。強面で屈強な男が開いた門から豪邸に足を踏み入れた身なりの良い中年男は、二人の姿を見付け人の良さそうな笑みを向けた。
「やあ、エスカロナ」
 聞き覚えのない名前も、弱った足で機敏に立ち上がる師を見るに彼の名前だったのだと合点がいった。慌ててセシリオも腰を浮かす頃には、中年男はもう目の前まで迫っていた。
「おや、弟子を取ったんだね。初めまして可愛い坊や。私はこの家の当主、ホセ・アルバだ。お名前は」
 久しぶりに接する知らない人間。元来人見知りのセシリオは背筋がゾッとする様な嫌悪感に身を震わせながらも、必死で笑顔を貼り付けた。
「初めましてアルバさん。僕はルイス・ブルーナです。とても素敵な庭園ですね」
 薔薇の庭園に遠慮がちに佇む少年が発した見た目に全く忠実な美しく透き通る声に、ホセは満足気に頷いた。
 ホセ・アルバ。彼の最初の印象は、品があり、恰幅の良い紳士。正しく貴族に相応しい威厳と自尊心に満ち満ちた男であった。師、エスカロナが丹精込めて創り上げる庭園の持ち主である彼に、セシリオも悪い印象はまるで持ち合わせてはいなかった。
 しかし事件は、相変わらず青く澄み切った大空の下で静かに幕を開けた。

 其れから暫くした頃。其の日もセシリオはアルバ邸の庭の手入れを無心でこなしていた。これだけ広い庭園となると、とても二、三日で上がる仕事ではない。暫く掛かるだろうと言うのは師、エスカロナが言っていた。そして少しの間この屋敷に出入りする中で、当主であるホセの他に、この家には妻と三人の子供がいると言う事が分かった。たまに長女が執事と庭で戯れる他は誰も皆庭に目も向けないから、セシリオの存在にも気付かない。初めて会った日、師が言っていた言葉の意味を、セシリオは其の時に強く実感した。
 美しい庭園に見向きもせず、有り余る贅を食い尽くす、愛を忘れた人々。誰にも愛でられる事なく咲き誇る薔薇の花弁に、セシリオは柔らかい口付けを落とした。例え自分一人だとしても、変わらぬ愛を誓うように。其れはまるで、壁画に描かれたクピド其のものであった。
 そんな秘められた美しい口付けを、一人の男が熱い眼差しで見詰めていた。
「ルイス、少し良いかな」
 其の声を聞くまでまるで人の気配を感じていなかったセシリオは、文字通り小さく飛び跳ねた。振り向いた其処に佇むのは紛う事なき気品溢れる貴族。
「アルバさん、すみません」
 押し寄せる背徳心からセシリオは慌てて小さな頭を下げた。動く度に踊る漆黒の絹糸に視線を這わせながら、ホセは立派に蓄えた口髭を緩やかに持ち上げる。
「どうだろう。絵のモデルになってくれないかな」
「絵の、モデルですか?」
 余りに唐突な提案に、セシリオは小さく首を傾げた。
「なに、私の単なる趣味なのだけどね。君の様な美しい少年を探していたんだ」
 大きく一歩近付いたホセは、驚きに薄く綻んだ薔薇色の唇をゆっくりとなぞった。
「蝶を誘惑する花弁を拡げる前の、膨れ上がった蕾のような君をね────」
 純潔を守り、そして兄により穢れの全てから守られ生きて来たセシリオは、其の時に感じた微かな違和感の正体を見破る事が出来なかった。飴玉を餌に手を引かれる幼児の様に、セシリオは何処までも無垢であったから。
 しかし雇われた身であるセシリオは即答出来ず、一度師に聞いてみる事を言い残し一旦其の場を離れ、庭園の外れで手を動かすエスカロナの元へと走った。
「……へえ、絵のモデルかい。お前さん程の器量なら無理もねえ話だな。興味があるならやってみな」
 一見ぶっきらぼうながら優しい老父は、そう言ったっきり一度止めた手を再び動かした。興味があるのかないのか、と言われれば無くはない。其れに得意先の要望を断れば師に迷惑が掛かるのではないか。そう思えばこそ、答えは始めから分かり切っていた。絵のモデルとは如何なる物か考えを馳せながら、セシリオは意気揚々とホセの元へ走った。
 約束を今日の仕事が終わった後と取り付けたセシリオは、長い陽がどっぷりと沈んだ頃、言われた通りに正面玄関をぐるりと回り、庭園の外れにある小さな離れの扉を叩いた。
「どうぞ、入りなさい」
 セシリオは聞き覚えのあるホセの声に安堵を覚え、小さな体を滑り込ませた。彼のアトリエなのか、部屋中に独特な油のにおいが充満していた。
「よく来たね、そこに掛けなさい」
 言われた通り、油絵具が所々に付着した粗末な椅子に腰を下ろす。
「君は本当に美しいね、ルイス」
 良くは分からないが、取り敢えずセシリオは小さく頭を下げた。
「少し、触れても?」
「は、はい」
 絵を描く為に必要なのだろうか。そう考え、セシリオは素直にしゃんと背筋を伸ばした。ホセは満足そうに頷くと、恐る恐る手を伸ばした。
 生まれたての花弁のような、しっとりと指に吸い付く柔らかな頬。ぷっくりと膨れた薔薇色の唇は、まるで幼女の陰部を眼前に突き付けられているような背徳的な魅力を放つ。細い身体の輪郭は、弾む汗が地面へ流れる為に真直ぐに落ちており、正しく少年の其れだ。ホセは目の前で無防備に晒されている美しき神の賜物を前に、己の男たる象徴が滾って行くのを感じた。
 今直ぐにでも、この固く閉ざされた秘境の扉を抉じ開けてしまいたい。其の激しい欲情を抑え、ホセは未だ大人しくされるがままきちんと足を揃えている少年の耳の付け根に鼻を擦り付けた。甘い花の匂いに混じり、太陽と土と、そして少し刺激のある汗の匂いが官能的に鼻を掠めて行く。
「あの……大丈夫ですか」
 耳元で吐き出される荒い吐息に不安になったセシリオが問い掛けると、小さなリップ音が耳朶の上で響いた。びくりと身体が硬直した事に気を良くし、ホセは無遠慮にも耳孔に舌先を差し入れた。
「あ、っ……!」
 唾液が皮膚に擦り付けられ、粘るような淫靡な水音が鼓膜に直に響く。これは絵を描く為などではない。そう気付いた途端、セシリオは恐怖に身を震わせた。其れでも火の付いた男の欲望は、燃え上がるばかり。
 土いじりで汚れたシャツに手がかかり、性急にボタンが弾けて行く。三つほど弾いた所で、ホセは徐に手を滑り込ませた。平らな胸を飾る薄紅色の飾りを指先で捏ね繰り回され、セシリオは思わず椅子から立ち上がった。
「いやっ……!」
 そのまま無我夢中で太い腕を振り払い、扉を突き破る勢いで駆け出した。がくがくと震える足に鞭打って、唯ひたすらにルイスの元へ。

 古びた人買い小屋の二階────。
「だめ、セシリオが帰ってくるから……」
「分かったよ。明日、掃除終わったら。良い?」
 娼館の仕事が休みだった二人は、そんな会話を楽しみながら窓辺で呑気に戯れ合っていた。
 其の穏やかな時をぶち壊すかのように勢いよく扉が開かれ、脇目もふらずルイスの胸に飛び込んだセシリオの姿に、二人は思わず顔を見合わせた。
「セシリオ、どうしたの」
 幾ら語りかけてみても、小さな肩は小刻みに震えている。何時もよりも遅い帰宅に、セシリオのこの様子。ただ事では無い事を悟ったルイスは、人知れずに奥歯を噛み締めた。
「エリアス、少し外してくれるかい」
 心配そうに覗きこんでいたエリアスも、ここはルイスに任せた方が良いだろうと素直に部屋を後にした。
 エリアスが部屋を出た事を確認すると、胸に顔を埋める弟を引き離し、ルイスは殊更優しく問い掛ける。
「大丈夫だよ、僕の可愛いセシリオ。涙を拭いて。何があったか、教えてくれるね」
 セシリオは泣きじゃくりながら、悍ましい行為を告白した。
 全てを聞き終えるや、ルイスは爆発的に胸の内に芽生えた激しい怒りの焔を巧妙に隠し、優しくセシリオの頬を撫でた。
「目を閉じてごらん」
 何時もと変わらぬ兄の囁きに、セシリオはそっと瞼を閉じた。
「君はまだ美しい薔薇の蕾。花弁を広げる前の、穢れなきままだ」
「でも、だって……」
 確かにホセは、この身体を穢したのだから。ルイスはそう続けようとするセシリオを制し、穢された部分に一つ一つ唇を落とした。
「綺麗だよ、僕のセシリオ。ここも、ここも、それからここも。まだ誰に触れられた事も無い筈さ。だって君は────ルイスだもの」
 セシリオが驚いて瞼を見開くと、何時もと変わらぬ慈愛に満ちた真摯な瞳が見詰めていた。
「僕が……お兄ちゃん?」
「そうさ。其のお屋敷に行っている間、君はルイスでしょう。そして僕がセシリオだ」
 ルイスはまるで魂を移すかのように、薔薇色に色付いた唇にそっと口付を落とした。
「お願いだ、僕の可愛い薔薇の蕾。僕にだけその美しい姿を見せておくれ。僕以外に、見せてはいけないよ」
 セシリオは其の言葉の意味を噛み砕きながらも、何度も何度も頷いた。

 ルイスは自分の小さな庭園でのみ、この美しい花が咲く事を望んだ。この俗世における穢れは全て、この身で引き受ける。だからどうか、愛する弟が薄情な神の所為で傷付いてしまわぬよう、其れだけを祈った。