取調室 Ⅳ


 雨の打ち付ける取調室の四角い窓の水流が溜まった埃を洗い落として行く。刑事はぼんやりと其れを見詰めながら、小さく唸った。一体この話しの果てに何が見えるのか、もう分からなくなってしまったのだ。
 エリアス・ブランケルは、セシリオとルイスの入れ替わりを証言した其の人である。手元にファイリングされている証言に再び目を通してみても、最初の入れ替わり以降二人は入れ替わったまま。
 ここで一つ仮説を立てるとしよう。二人は最初の入れ替わりの後に、誰にも気付かれず数度入れ替わったとする。だが兄ルイスと恋仲になったエリアスが、二人が入れ替わった事に気付かないものなのだろうか。其れは考え難い。だとしたならば、どうしてこの少年は自分が何方か分からなくなっているのだろう。其れがさっぱり分からないのだ。

「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」
 余りにも突然語り出した少年を前に、刑事は思わず眉を顰めた。
「ヨハネの手紙第一 、四章。確か……七から八節だったかなあ」
 この国の九割を超える人間はカトリック教徒である。当然少年が今口走った新約聖書の内容など、頭にも入っている。今更そんな物を刑事に語って何があると言うのだろうか。
 怪訝な顔を崩せずにいる男に向けて、少年は安らかに微笑んだ。
「僕達は愛を知っていた。だってこんなにも、愛し合っていたんだもの。でも神様を理解出来なかった。神様が愛だと言うのなら、愛に満ち溢れていた僕達は救われるべきでしょう。だから嘘ばっかりの聖書を投げ捨てて、ルイスは本当の答えを探しに行ったのさ」
 其の言葉に刑事は深く息を吐き出す。
「……率直に聞こう。君はセシリオなのか。ルイスなのか」
 遂に白旗を上げた男の冷めた瞳を少年も真っ直ぐに見詰め返し、まるで誘うかのように、人差し指でゆっくりと卓上を撫で上げた。
「兄ルイスは頭でっかちのフガドーラ。弟セシリオは穢れを知らぬエルニーニョ。さて、愛されるのはどちら?」
 一体何の話しだと頭を抱える刑事を見やり、少年は可笑しそうに声を上げて笑った。
「嗚呼、頭が痛い」
 もう余計な事を聞くのはよそう。そう決意を固め、刑事が抱えた頭を上げるや、少年は不気味な程に穏やかな、やはり聖母の微笑みを浮かべた。
「悩む事なんか無いさ。真実を知っても意味はないんだから。僕のお話しは唯の作り物。劇場で上演されたお芝居の台本だと思えば良い 」
 また訳の分からない事を。そう思い眉を顰めた刑事を見るや、一変少年は聖母から堕落の道を辿る堕天使に姿を変えた。
「だってそうでしょう。僕達は庶民。こんな悲劇……趣味の悪い低脳な貴族しか好まないもの」
 寒気のする程の深い憎しみが、美しき黒曜石の中に揺れる。
「刑事さん、人の心を最も残酷にするものはなあに?」
 広い眉間により深い皺を刻む刑事を、少年は真直ぐに見据えた。

「其れはね、満ち足りた惰性の果てに待ち受ける、無聊に他ならないのだよ」